20世紀のはじめには超弩級の日本人アートコレクターが活躍しました。パリ画廊街で大量の絵画を爆買して有名になった川崎造船の松方幸次郎(1866―1950)。倉敷紡績や中国銀行ほか大原財閥を築き大原美術館を創設した大原孫三郎(1880―1943)と総一郎(1909―1968)父子。そして、パリで収集家、美術評論家として活躍し仏語版と英語版美術評論誌『フォルム』を刊行、日本では銀座にフォルム画廊を開いて画商になった福島繁太郎(1895−1960)など。彼らは惜しげもなく豊かな財力を駆使して多くの美術作品をわが国にもたらしました。国立西洋美術館所蔵品の基礎をつくった松方コレクションは一時西洋美術3,000点、浮世絵8,000点を誇ったのですが、第二次大戦時に焼失や散逸に見舞われ、またフランス政府に敵国財産として接収されます。戦後になり約370点が返還されたのですが、そのなかにゴッホの「アルルの寝室」はありませんでした。
横浜の生糸の豪商で三渓園コレクションをつくり若手画家を支援した原富太郎(原三渓、1868−1939)は、東京の跡見女学校(跡見女子大学)で歴史を教えていましたが、生糸輸出業を営む原家の婿養子となって事業を拡大していきます。富岡製糸場をはじめ各地の製糸工場を経営し、横浜興信銀行(横浜銀行)の頭取や帝国蚕糸社長なども務め、そして若いアーティストたち(小林古径、前田青邨、横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟、安田靫彦ら)の作品を積極的に購入し、彼らを援助したパトロンでした。静嘉堂文庫美術館は三菱創業者岩崎弥太郎の弟で二代目総帥の弥之助(1851—1908)とその息子小弥太(1879—1945)にコレクションが収められています。また尾形光琳の「紅白梅図屏風」で知られる根津美術館は根津嘉一郎二代(1860—1940、1913—2002)にわたる蒐集の成果でした。三井財閥の重鎮で茶人としても知られた益田孝(1848—1938)は「源氏物語絵巻」や数多くの国宝級の逸品を一時所有していましたが、敗戦直後に財産税のために売り立てに出され、コレクションの多くが散逸しました。
彼らは日本の美術館の創生期をかたちづくりました。いま私たちが豊かな美術館文化を享受できるのも彼らのたゆまぬ情熱に負っています。それは個人的な独占欲を満足させるだけのものではありませんでした。芸術を慈しむ喜びを多くの人びとと共有していくというヴィジョンが美術館へと収束させていったのです。趣味的な蒐集がやがて大量に増えて、これを保管する収蔵庫が必要になります。ここから美術館として社会的に公開するには格段の飛躍が必要となるでしょう。松方幸次郎や原富太郎や大原父子が近代的な日本人コレクターの第一世代とするなら、石橋正二郎はその第二世代といえるかもしれません。彼は蒐集の当初からコレクションを一般公開することを念頭においていたからです。
ここで、視点を振ってアメリカの場合を見てみましょう。
アメリカの美術館は基本的に非営利の私立美術館です。そして多くの巨大コレクションの基礎を築いたのは名だたる大富豪たちの寄付でした。20世紀初め、萌芽期にあったアメリカの美術館へ彼らは巨万の富を惜しげもなく拠出しました。メトロポリタン美術館(総所蔵品数300万点)の有名なエジプト美術のコレクションは金融業のジョン・P・モーガン(1837—1913)の寄贈の一部からつくられました。フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領に国立美術館の設立を申し出てワシントン・ナショナル・ギャラリー(総所蔵品数12万点)を創設した銀行家アンドリュー・W・メロン(1855—1937)、また石油王とともに軍需産業、金融業でも成功し、政治家も輩出した名門ロックフェラー・ファミリーの初代ジョン・D・ロックフェラーは敬虔なプロテスタント・バプテスト派の信者で社会貢献活動には熱心でしたが、芸術にはあまり関心がありませんでした。しかし息子ジョン・D・ロックフェラーⅡ世の妻アビーはニューヨーク近代美術館MoMA(総所蔵品数10万点、11 W 53rd St, New York)の創立メンバーのひとりでした。ホイットニー美術館(99 Gansevoort St, New York)を創設し、アメリカ現代美術の振興に大いに貢献したのはガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー(1875―1942)とフローラ・ホイットニー・ミラー(1897−1986)の母娘です。またデトロイトの鉄道王チャールズ・ラング・フリーア(1854―1919)は国宝級の名品がずらり揃った日本美術の収集で知られるフリーア美術館のコレクションを築きました。彼らはアメリカを美術大国に押し上げるのに大いに寄与したのです。
正二郎は自著『私の歩み』に尊敬するアメリカ人企業家を3人あげています。世界三大タイヤメーカーのひとつであるグッドイヤータイヤの元会長ポール・ウィークス・リッチフィールド。タイヤ製造に欠かせない炭素素材で取引があるカーボン会社キャボット・コーポレーションの創始者ゴッドフリー・ローウェル・キャボット。そして世界最大の慈善団体ロックフェラー財団の代表ジョン・D・ロックフェラーⅢ世の3名の社会貢献に大いに感銘を受けたと書いています。彼らはいずれもアメリカを代表する企業家であり、世界有数の篤志家でした。彼らの社会貢献は実に洗練されていて、大学に研究施設を創設したり、福祉事業を支援するなど実に多彩な活動をしています。社会貢献は富める者の責任と考えていました。
近年、企業の社会貢献についても関心が高まり、芸術文化活動への支援がさかんになっています。日本においては1990年に発足した社団法人企業メセナ協議会(現在は公益社団法人)など芸術文化支援へ民間企業が積極的に擁護活動を協働していくような傾向も現れてきました。この背景には、国際化がすすむなかで芸術文化の重要性が注目される一方、わが国の文化予算が先進国比較で最低水準であるという状況がありました。企業メセナ協議会では支援に対する税制上の優遇処置を政府に求めていくなど企業の支援に対するモティヴェーションを高めていく活動もしています。しかしバブル崩壊に向けて傾斜していく経済状況にはばまれて、その浸透は順調ではありませんでした。
現在では企業の社会貢献についてはCSR(corporate social responsibility企業の社会的責任)やコンプライアンス(法令遵守)など企業に対する眼が厳しくなるなかで、フィランソロピー(社会貢献活動)への関心が急速に高まっています。正二郎が教育施設などへの寄付を開始し社会貢献を実施していくのが1920年代終わりからですが、当時はもちろん税制的優遇などなく、質素な生活とともに私財を提供して事業資金を回すなどして充当したのだそうです。ここでも石橋正二郎の先進性を確認することができるのです。