さよなら石橋美術館(5)石橋文化センターと石橋美術館

坂本繁二郎は1969年に亡くなるまで八女のアトリエで制作三昧の生活を送りました。八女市は久留米から西鉄バスで約30分。自然豊かで八女茶(「伝統本玉露」の生産量日本一)や巨峰、博多あまおうほか果物野菜の生産、清酒醸造などがさかんな地です。繁二郎はこの自然を愛しました。当時は見渡す限り畑や田んぼが広がり、油彩画材一式を錆びた乳母車に押し込んで畦道を歩く繁二郎がしばしば見られました。よく馬を描いているけれど、牛、能面、能面の箱、月雲、柿、リンゴ、ナス、卵、砥石、煉瓦、石、植木鉢、はさみ、辞書など、およそモティーフに選り好みがありません。頼まれれば工業用モーター(安川電機製)も描いています。繁二郎にとって目の前にあるものすべてが自然であり画題でした。

彼は20歳から39歳までのほぼ20年間を東京で過ごしたのち、ヨーロッパ遊学後に久留米の近郊、八女で自然に寄り添う生活を選びました。後年、繁二郎は安井曾太郎、梅原龍三郎とならび日本近代洋画の巨匠と呼ばれるようになりますが、当時、画家として成功することを夢見て東京をめざした青年たちがつぎつぎと欧米の前衛美術に感化され、表現スタイルを変転させたのに対して、繁二郎はひたすら土着的で晦渋な独自の日本的絵画世界を追求しました。多くが自己の芸術を完成することなく困窮のなかで夭折したのに対して、繁二郎は久留米という安住の地を得て画業に専念し長寿を全うしました。表層的には穏やかな人生だと思われますが、はたしてそうでしょうか。彼の内面には外部からでは想像もできないような葛藤が潜んでいたかもしれません。芸術作品の創出には作家が生まれた土壌と密接な関わりがあります。繁二郎と八女の自然とは分かちがたく結ばれ、それが石橋美術館の運営にも大きく影響することになりました。

石橋美術館は単独で建設されたのではありませんでした。久留米は1945(昭和20)年8月11日の空襲で市域の3分の2が焦土と化しました。市民の多くがバラック住まいの不自由な生活を強いられたのを見て、石橋正二郎は健全な娯楽がない状況を少しでも改善したいと考え、その10年後に大規模な総合レジャー施設「石橋文化センター」を建設しました。西鉄久留米駅からほぼ1㎞、徒歩10分余のところに石橋文化センターは1956(昭和31)年に完成したのです。約5万㎡の敷地に石橋美術館以外に体育館、遊園地、ペリカンプール、公認50mプール、野外音楽堂、花壇、憩いの森、テニスコートなどがつくられ、のちに文化ホール(1963年)、日本庭園(1972年)、市民図書館(1978年)とつぎつぎと増えていきました。これらすべてを久留米市に寄贈します。石橋文化センターには八女の坂本繁二郎のアトリエもそのまま移築されました(1980年)。

正二郎は、石橋文化センターに芸術の価値を広く大衆と分かち合うという理想を追求しました。石橋美術館が芸術鑑賞の場として独立しているのではなく、さまざまな娯楽が相互に影響し合い、芸術と日常との境界が取り払われた場にしました。たとえば、子どもたちがペリカンプールで泳いだ帰りに美術館に立ち寄って、高村光太郎作「手」の指の曲げかたを日焼けした手で真似している、そのような環境です。美術館の白壁に鎮座した作品と向き合う一方で、センター全体でさまざまな娯楽を享受できるような複層的な文化空間が「石橋文化センター」だったのです。このような施設は、当時、わが国ではめずらしく斬新でした。

ド・ゴール政権時のフランス文化担当国務大臣アンドレ・マルロー(1901ー1976)が国内各地につくった「メゾン・ド・キュルチュールMaison de Culture(文化センター)」がその発想に似ています。どちらも大衆を中心にした文化施設であり、当時としては先進的で画期的なプランでした。マルローは国家予算の1%を文化政策に充当するという目標を掲げ、パリ中の煤けた建物を白く洗い、オペラ座の大天井画をシャガールに委託し、宮殿、寺院、劇場などの建築遺産の大規模な修復事業を行いました。ほかにも若い芸術家のために1,500棟のアトリエやスタジオをつくるなど多彩な文化プロジェクトをいくつも実施しました。メゾン・ド・キュルチュールとは、全国レベルで文化の民主化を提唱したマルローが各地方都市につくった劇場、映画館、図書館、美術ギャラリーが集まった複合文化施設であり、国民が優れた芸術文化に接する機会を飛躍的に向上させるという試みです。この国家プロジェクトはミッテラン政権時の文化大臣ジャック・ラングへと引き継がれ、ラングはさらに映画、写真、美術教育、ファッション、ジャズ、料理など今まで芸術と認められなかった新興芸術や大衆文化なども視野に入れた文化支援を定着させていきました。

マルローは1960(昭和35)年にブリヂストン美術館を訪ね、時間をかけて全部の展示を観賞して石橋コレクションの質を高く評価しました。翌年パリで石橋コレクションの展覧会を開催する計画がもちあがり、パリ国立近代美術館において1962(昭和37)年に「里帰り展」が開催され新聞でも大きく報道されて話題を呼びました。正二郎の石橋文化センターとマルローのメゾン・ド・キュルチュールとの違いは美術館に対する考え方にあります。メゾン・ド・キュルチュールの美術館はコレクションをもたないギャラリー的性格です。同じ展覧会が各地を巡回し、その土地の地域性や固有性は考慮されません。一方、石橋美術館は地元作家を中心にコレクションを充実させ、久留米という土地柄に根ざした独自性をもっていました。これは欧米の多くの美術館を参照しながらも地域文化を基礎にした石橋美術館のアイデンティティと呼べるでしょう。