青木繁と繁二郎は1882(明治15)年の同い年生まれ、久留米高等小学校では同級でした。家もとなり町で1キロ弱しか離れていません。彼らは森三美の画塾でもいっしょでしたが、当時の画力は繁二郎のほうが格段に勝っていたといわれています。繁二郎は4歳のときに父を亡くして、1895(明治28)年久留米高等小学校を卒業するが進学を断念しています。1900(明治33)年には兄も失って母ひとり子ひとりの家庭は困窮しました。1901(明治34)年4月頃、森三美の紹介で久留米高等小学校の図画代用教員となり翌年7月まで担当しました。このとき坂本繁二郎と石橋正二郎は教師と生徒として出会っているのです。
1900(明治33)年に青木繁は久留米高等中学校明善校(現福岡県立明善高等学校)を中退して上京し、小山正太郎の画塾をへて上野美術学校西洋画科(現東京藝術大学絵画学科油絵専攻)に入学、1902(明治35)年夏には徴兵検査のため久留米に帰省しました。そのとき青木の絵を見た繁二郎はその変貌ぶりに衝撃を受けるのです。上野で学ぶ青木の驚くべき上達に大いに刺激され、繁二郎は画家になることを決意します。そして9月になると青木といっしょに東京へ向かいました。母ひとり残しての上京です。青木は上野美術学校在学中の1903(明治36)年に白馬会第8回展に出品していきなり白馬賞を受賞し、華々しい画壇デビューを果たして一躍注目を浴びることになります。一方、繁二郎は1904(明治37)年に太平洋画会展に初出品し、その後断続的に出品をつづけるが、はかばかしい成績を残すことはできませんでした。彼は東京パック(大衆漫画雑誌)に入社してもっぱら諷刺まんがで生計をたてることになります(明治41〜44年)。
その後、青木は代表作「海の幸」につづく大作「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出展しましたが三等の末席、不評でした。絵筆以外に生活の手段を持たなかった青木は、父の死後家族を扶養する義務を背負い、また恋人福田たねと長男幸彦を栃木県水橋村のたねの実家に預けたまま病気と貧困にさいなまれ失意のなかで28歳の若さで逝去します。
彼らの荒ぶる魂をやさしくつつみこむ器となったのが石橋美術館だったのです。