さよなら石橋美術館(3)石橋美術館の誕生

石橋美術館の誕生には大いに坂本繁二郎が関係していました。1924(大正13)年9月にヨーロッパ遊学から帰国した繁二郎は自宅があった東京には帰らずにそのまま故郷久留米の土を踏んだのです。以後、東京には一度も戻らずに郷里で黙々と画業に専心することになります。帰国から6年後の1930(昭和5)年、繁二郎は高等小学校の臨時図画教師時代の教え子であった石橋正二郎を訪ね、「夭折の天才青木繁の作品が散逸するのが惜しいので作品を買い集めて美術館を建ててもらいたい」と依頼しました(石橋正二郎著『私の歩み』私家版、1962年)。この訪問が、それまで自宅の壁面を飾るための美術品収集から、正二郎が自覚的に系統的なコレクションを形成していく契機となったと考えられます。そして西欧への関心も高かった正二郎の収集は日本近代洋画とともにフランス印象派、ヨーロッパ近代絵画へと拡がっていったのです。

1937(昭和12)年にブリヂストンタイヤ株式会社は本社を発祥の地久留米から東京へ移転しました。そして1952(昭和27)年1月11日、戦災で焼けた京橋のブリヂストン本社ビルを再建する際に、ヨーロッパ近代絵画のコレクションを一般に公開するための施設として、2階にブリヂストン美術館を開設しました。もっとも参考にしたのはニューヨーク近代美術館だったそうです。すでにヨーロッパ近代絵画の収集で名高かった倉敷の大原美術館に加え、まだ戦争の痕跡をとどめる東京のビジネス街の中心に誕生したお洒落な私立美術館は大いに話題を呼び、多くの来館者が訪れるようになりました。

石橋コレクションの形成に正二郎は企業経営と同じ熱心さで取り組んだのです。収集のプロセスは財力にまかせた力業ではなく、私生活は質素であった正二郎が半生を要した謹厚慎重な努力の賜でした。そのなかには戦時中に困窮した美術愛好家の手放した作品が海外流失するのを防ぐために購入した作品もありました。収集作品の選定に当たっては著名な研究家や美術ジャーナリストを集めた諮問グループに意見を求めています。彼らは石橋コレクションの拡充に協力し、のちにブリヂストン美術館と石橋美術館の展覧会企画にも参画するようになりました。アカデミックな裏付けや当時の美術思潮を反映させて個人的な趣味性や偏向性を排したコレクションの形成を実現したと言えるのです。

石橋美術館のコレクションには久留米出身の美術家が多い。青木繁、坂本繁二郎、高島野十郎、古賀春江、吉田博など近代日本洋画史に名を残す美術家が多く久留米から誕生したのは美術史上の奇跡といわれています。なぜ明治期以降、九州の小都市に尋常でない数の画家たちが生まれたのでしょうか。幕末から明治維新にかけて旧久留米藩(有馬藩)では世継ぎ問題に端を発した藩内抗争が長期間つづいて多くの優秀な人材が失われました(「天保学連」の分裂)。これを多数の画家が生まれた誘因要素と考えたのが浮羽郡出身の美術史家河北倫明です。有馬藩の問題は深刻でした。薩長土肥をはじめ周辺の雄藩が明治新政府でつぎつぎ要職に就いて活躍するのをただ見ているだけの有馬藩の若者は未来への夢を絶たれ逼塞し、没落した士族は困窮して鬱屈が蔓延していきました。そのようななかで官職ではなく芸術で身を立てようとする有志が現れたのです。立身出世の夢を絶たれた彼らの心情は屈折や強迫に満ちて表現行為に固執した、と河北倫明は指摘しています(『青木繁—悲劇の生涯と芸術』「じゅうげもんの世界」角川新書、1964年)。青木繁と坂本繁二郎はともに有馬藩の士族の子として生まれましたが、青木繁は夢想家で浪漫的な気質を開花させ、早すぎる死に向かって全速力で28年間を駆け抜けました。それに対し、坂本繁二郎は自然と向き合いながら自己の芸術を追究し、孤高の画家として87歳の天寿を全うするのです。二人はまったく異なる指向性を示しましたが、実は並々ならぬオブセッションを共有していました。

この傾向はほかの久留米の画家たちにもいえるのではないでしょうか。たとえば、浄土宗の寺の長男に生まれながら僧籍を継ぐことなく数々の造形的実験を繰り返して前衛を生きた古賀春江。東大農学部水産学科卒業後に画家を志し、独学で写実を極め透徹した精神性に到達した高島野十郎。有馬藩士の家に生まれ1899年に渡米、水彩風景画と木版画とで数々の新機軸を生み出して欧米でも高い評価を受けた吉田博など。いずれも尋常でない偏執ぶりです。筑後の穏やかな気候に育まれて、明るくのんびりした気風の裏には、深く沈降した情念が淀んでいて複雑に屈折した心情が豊饒な創造意欲を醸成しました。さらに久留米は青木繁、坂本繁二郎らに絵画を指導した森三美(みつみ)や古賀春江らを教えた松田実(諦晶)など優れた指導者にも恵まれ、豊かな才能を育んだ土地です。久留米に石橋美術館が生まれたことは日本近代美術史上の象徴的なできごとだったのです。