さよなら石橋美術館(2)消えた美術館

石橋美術館(福岡県久留米市野中町1015)が閉館したのは2016(平成28)年8月28日です。1956(昭和31)年4月26日にオープンしたので、ちょうど開館60年目にその歴史の幕を閉じたことになります。運営主体であった公益財団法人石橋財団が久留米から撤退し、960点の所蔵作品は財団の本拠地である東京で一括管理されることになったのです。美術館自体は久留米市が運営を引き継ぎ、あらたに「久留米市美術館」と改称して2016年11月19日に再オープンしました。充実した内容を誇ったコレクションは東京町田にあるバックヤード「石橋財団アートリサーチセンター」へ移転したのです(数点は石橋財団から寄託というかたちで一時的に借り受けています)。

石橋美術館は、ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館、東京都中央区京橋1-10-1)とともに、世界最大のタイヤメーカーであるブリヂストンタイヤの創業者石橋正二郎がつくった美術館です。公立近代美術館最初の神奈川県立近代美術館のオープンが1951年10月、ブリヂストン美術館が1952年1月につくられ、東京国立近代美術館が同年12月、これらにわずか4年遅れて開館したのが石橋美術館なのです。まさに日本の美術館建設の黎明期のできごとでした。

石橋美術館の所蔵作品の中心となったのは明治以降の日本近代洋画です。なかでも青木繁、坂本繁二郎、藤島武二をその嚆矢としました。久留米出身の青木・坂本、鹿児島出身の藤島がコレクションの中核をなし、さらに岡田三郎助、黒田清輝、古賀春江、児島善三郎、藤田嗣治、安井曾太郎、吉田博など日本近代美術の礎を築いた錚々たる画家たちの代表作がつぎつぎとラインナップに加わりました。やがて石橋美術館は全国でも屈指のコレクションをもつ美術館となっていくのです。コレクションの展示に重きをおいた企画運営によって、何時訪れてもお気に入りの名画が観られるという、美術ファンにとってはとても重宝な美術館でした。また近代の日本美術を研究する人びとにとっても久留米は必ず訪れるべき聖地のひとつであったのです。

60年間の綺羅星のような展覧会の数かずをあらためて想い起こすと、その存在の大きさをいまさらながらに実感することができます。なぜ石橋美術館は閉館しなければならなかったのか。美術館がクローズする理由には経済的な要因が多いといわれますが、石橋財団の正味財産は3,272億円(2015年度末資料による)と伝えられていて、財団にとって年間2億円に満たない石橋美術館の運営経費が重荷になったとは考えにくいのです(『読売新聞西部本社版』2014年7月12日)。では、どうして日本有数の美術館が久留米から消えなければならなかったのでしょうか。

半世紀以上愛されつづけた美術館の終幕はいかにも残念です。戦後まもない頃に福岡県、筑後地方の小さな都市に誕生した石橋美術館は久留米という街の歴史と大きく関わり、石橋正二郎という稀代の企業家のクリエイティヴィティの遺産でもあり、またこの国の美術館のあり方についても語り継ぐべき多くの逸話を残してきました。本稿では過去と現在(さらに未来)を往還しながら、石橋美術館についてさまざまな観点から考えていきたいと思うのです。