1906(明治39)年17歳の正二郎は兄とともに家業の仕立物屋を継ぎました。1914(大正3)年には足袋製造を専業にし、1921(大正10)年に足袋の裏底にゴムを貼った地下足袋を開発して爆発的成功を収めました。つぎに布製ゴム底靴(ズック)の製造で全国的な企業へと拡大し、さらに自動車タイヤの国産化に成功するとつぎつぎに事業を拡張していきます。彼の経営方針は売り上げの1割を適正利潤とし、そのぶん製品価格を抑えるというものでした。そして収益の3分の1ずつを会社と個人へ、のこり3分の1を社会に還元することを自らに課したといわれています。「絶えず時世の変化を洞察して、時勢に一歩先んじてよりよい製品を創造して、社会の進歩発展に役立つよう心がけ、社会への貢献が大きければ大きいほど事業は繁栄する」と自著『私の歩み』で述べ、社会貢献を企業経営と並列に扱った正二郎の独創的な考え方を見ることができます。地下足袋もズックも自動車タイヤも正二郎がつくったものはすべて地面に接するものです。まさに地に足がついたクリエイティヴィティでした。草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)が一般的だった時代に労働者の安全と健康を守ることをめざしたのです。それがそのまま石橋正二郎の企業精神でもありました。地下足袋の発明と美術館をつくることとは正二郎においては同じ次元のことだったのですね。
石橋文化センターのオープンと同じ1956年に、イタリアの国際現代美術展ヴェネツィア・ビエンナーレ会場に日本の展示パヴィリオンが完成しています。この建設資金を提供したのも正二郎です。日本館の建設をイタリアから提案されていた日本政府は予算上の問題でなかなか着工することができず、そこで正二郎に白羽の矢を立てました。快諾した彼はパヴィリオンの完成までを監修し、その全費用を捻出しました(1955年竣工、建設資金2千万円:現在の価値で約15億円、吉阪隆正設計)。また、1969年には京橋から移転を予定していた東京国立近代美術館を北の丸代官町に新築する工費も全額出費し、完成後に国へ寄贈したのです(建設資金12億5千万円、現在の価値で約50億円、谷口吉郎設計)。
石橋正二郎の久留米への郷土愛が半端ないです。
地下足袋の製造を始めて間もない1928(昭和3)年、九州医学専門学校(現久留米大学医学部)の開校に際し校舎建設費用と用地を寄贈します。39歳のときでした。これが正二郎の地域貢献のもっとも早い例です。さらに全国の国立工業高等専門学校62校のうち最初に設立された久留米高等工業学校(現久留米工業高等専門学校)の用地と校舎建築を寄贈(1939年)。久留米大学商学部の用地と校舎建築(1954年)、久留米市内の小中学校21校にプール建設(1956年)、久留米商業学校(現久留米商業高等学校)の講堂と武道場建設(1956年)、久留米市長公舎建設(1956年)、この年には石橋文化センターも竣工しています。つぎに障害児施設久留米ゆうかり学園の用地と校舎建築(1957年)、久留米市立荘島小学校の講堂建築(1959年)、久留米大学附設高等学校(孫正義、堀江貴文らの母校)の用地寄贈(1965年)と枚挙にいとまがありません。久留米が全国有数の高度医療都市になったのも、久留米大学医学部校舎建築の寄付によって文部省の医専新設の誘致に成功からだといわれています。1956年に市内小中学校へプールを建設寄贈したのは筑後川流域に発生した日本住血吸虫症の宿主ミヤイリガイが生息するので筑後川が遊泳禁止になったのを憂慮したからだそうです。久留米市長の公舎もつくっているのには驚かされますね。
久留米と同様に東京でも多くの寄付や資金援助が行われました。港区立飯倉小学校用地(1949年)、津田塾大学日本庭園(千代田区一番町、1959年)、学習院大学85周年事業基金(豊島区目白、1960年)、小平市立小平第六小学校校地と建物(1960年)、日仏会館建設基金(渋谷区恵比寿、1961年)、国立教育会館建設資金(千代田区霞が関、1964年)、日本近代文学館建設基金(目黒区駒場、1968年)、日本美術協会新築建設費と造園費(台東区上野公園、1968年)、公益財団法人高松宮妃癌研究基金(港区高輪、1968年)、日本学士院会館内装費(台東区上野公園、1974年)、国際文化会館基金と建設資金(港区六本木、1976年)など多くの寄贈を行っているのです。
正二郎の社会貢献は金銭を提供するだけではありません。土地の場合は候補地を調査・選定し購入する、さらに建物の場合は設計者を選定し建物の完成後に寄贈する、正二郎は建築完成までのプロセス全体をマネジメントしています。すべての作業が終了し完成後に寄贈するというものです。いまならば建築計画の総合プロデューサーともいえるでしょうか。そして、このプロセスをおそらく正二郎自身は愉しんでいたようなのです。正二郎は絵筆をもつことはありませんでしたが、建築、造園には関心が高く、自社工場、石橋文化センター、自宅、別荘のアイデアスケッチを描き、建築材料や工法についても専門的な知識をもっていたといわれています。水明荘(久留米市御井町、石橋家の別荘)、奥多摩園(東京都青梅市二俣尾、ブリヂストンタイヤが運営する保養所)、鳩林荘(東京都府中市八幡町、府中競馬場近くの茶庭)なども設計しているのです。