さよなら石橋美術館(7)アートコレクターの活躍

20世紀のはじめには超弩級の日本人アートコレクターが活躍しました。パリ画廊街で大量の絵画を爆買して有名になった川崎造船の松方幸次郎(1866―1950)。倉敷紡績や中国銀行ほか大原財閥を築き大原美術館を創設した大原孫三郎(1880―1943)と総一郎(1909―1968)父子。そして、パリで収集家、美術評論家として活躍し仏語版と英語版美術評論誌『フォルム』を刊行、日本では銀座にフォルム画廊を開いて画商になった福島繁太郎(1895−1960)など。彼らは惜しげもなく豊かな財力を駆使して多くの美術作品をわが国にもたらしました。国立西洋美術館所蔵品の基礎をつくった松方コレクションは一時西洋美術3,000点、浮世絵8,000点を誇ったのですが、第二次大戦時に焼失や散逸に見舞われ、またフランス政府に敵国財産として接収されます。戦後になり約370点が返還されたのですが、そのなかにゴッホの「アルルの寝室」はありませんでした。

横浜の生糸の豪商で三渓園コレクションをつくり若手画家を支援した原富太郎(原三渓、1868−1939)は、東京の跡見女学校(跡見女子大学)で歴史を教えていましたが、生糸輸出業を営む原家の婿養子となって事業を拡大していきます。富岡製糸場をはじめ各地の製糸工場を経営し、横浜興信銀行(横浜銀行)の頭取や帝国蚕糸社長なども務め、そして若いアーティストたち(小林古径、前田青邨、横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟、安田靫彦ら)の作品を積極的に購入し、彼らを援助したパトロンでした。静嘉堂文庫美術館は三菱創業者岩崎弥太郎の弟で二代目総帥の弥之助(1851—1908)とその息子小弥太(1879—1945)にコレクションが収められています。また尾形光琳の「紅白梅図屏風」で知られる根津美術館は根津嘉一郎二代(1860—1940、1913—2002)にわたる蒐集の成果でした。三井財閥の重鎮で茶人としても知られた益田孝(1848—1938)は「源氏物語絵巻」や数多くの国宝級の逸品を一時所有していましたが、敗戦直後に財産税のために売り立てに出され、コレクションの多くが散逸しました。

彼らは日本の美術館の創生期をかたちづくりました。いま私たちが豊かな美術館文化を享受できるのも彼らのたゆまぬ情熱に負っています。それは個人的な独占欲を満足させるだけのものではありませんでした。芸術を慈しむ喜びを多くの人びとと共有していくというヴィジョンが美術館へと収束させていったのです。趣味的な蒐集がやがて大量に増えて、これを保管する収蔵庫が必要になります。ここから美術館として社会的に公開するには格段の飛躍が必要となるでしょう。松方幸次郎や原富太郎や大原父子が近代的な日本人コレクターの第一世代とするなら、石橋正二郎はその第二世代といえるかもしれません。彼は蒐集の当初からコレクションを一般公開することを念頭においていたからです。

ここで、視点を振ってアメリカの場合を見てみましょう。
アメリカの美術館は基本的に非営利の私立美術館です。そして多くの巨大コレクションの基礎を築いたのは名だたる大富豪たちの寄付でした。20世紀初め、萌芽期にあったアメリカの美術館へ彼らは巨万の富を惜しげもなく拠出しました。メトロポリタン美術館(総所蔵品数300万点)の有名なエジプト美術のコレクションは金融業のジョン・P・モーガン(1837—1913)の寄贈の一部からつくられました。フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領に国立美術館の設立を申し出てワシントン・ナショナル・ギャラリー(総所蔵品数12万点)を創設した銀行家アンドリュー・W・メロン(1855—1937)、また石油王とともに軍需産業、金融業でも成功し、政治家も輩出した名門ロックフェラー・ファミリーの初代ジョン・D・ロックフェラーは敬虔なプロテスタント・バプテスト派の信者で社会貢献活動には熱心でしたが、芸術にはあまり関心がありませんでした。しかし息子ジョン・D・ロックフェラーⅡ世の妻アビーはニューヨーク近代美術館MoMA(総所蔵品数10万点、11 W 53rd St, New York)の創立メンバーのひとりでした。ホイットニー美術館(99 Gansevoort St, New York)を創設し、アメリカ現代美術の振興に大いに貢献したのはガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー(1875―1942)とフローラ・ホイットニー・ミラー(1897−1986)の母娘です。またデトロイトの鉄道王チャールズ・ラング・フリーア(1854―1919)は国宝級の名品がずらり揃った日本美術の収集で知られるフリーア美術館のコレクションを築きました。彼らはアメリカを美術大国に押し上げるのに大いに寄与したのです。

正二郎は自著『私の歩み』に尊敬するアメリカ人企業家を3人あげています。世界三大タイヤメーカーのひとつであるグッドイヤータイヤの元会長ポール・ウィークス・リッチフィールド。タイヤ製造に欠かせない炭素素材で取引があるカーボン会社キャボット・コーポレーションの創始者ゴッドフリー・ローウェル・キャボット。そして世界最大の慈善団体ロックフェラー財団の代表ジョン・D・ロックフェラーⅢ世の3名の社会貢献に大いに感銘を受けたと書いています。彼らはいずれもアメリカを代表する企業家であり、世界有数の篤志家でした。彼らの社会貢献は実に洗練されていて、大学に研究施設を創設したり、福祉事業を支援するなど実に多彩な活動をしています。社会貢献は富める者の責任と考えていました。

近年、企業の社会貢献についても関心が高まり、芸術文化活動への支援がさかんになっています。日本においては1990年に発足した社団法人企業メセナ協議会(現在は公益社団法人)など芸術文化支援へ民間企業が積極的に擁護活動を協働していくような傾向も現れてきました。この背景には、国際化がすすむなかで芸術文化の重要性が注目される一方、わが国の文化予算が先進国比較で最低水準であるという状況がありました。企業メセナ協議会では支援に対する税制上の優遇処置を政府に求めていくなど企業の支援に対するモティヴェーションを高めていく活動もしています。しかしバブル崩壊に向けて傾斜していく経済状況にはばまれて、その浸透は順調ではありませんでした。

現在では企業の社会貢献についてはCSR(corporate social responsibility企業の社会的責任)やコンプライアンス(法令遵守)など企業に対する眼が厳しくなるなかで、フィランソロピー(社会貢献活動)への関心が急速に高まっています。正二郎が教育施設などへの寄付を開始し社会貢献を実施していくのが1920年代終わりからですが、当時はもちろん税制的優遇などなく、質素な生活とともに私財を提供して事業資金を回すなどして充当したのだそうです。ここでも石橋正二郎の先進性を確認することができるのです。

さよなら石橋美術館(6)石橋正二郎の社会貢献

1906(明治39)年17歳の正二郎は兄とともに家業の仕立物屋を継ぎました。1914(大正3)年には足袋製造を専業にし、1921(大正10)年に足袋の裏底にゴムを貼った地下足袋を開発して爆発的成功を収めました。つぎに布製ゴム底靴(ズック)の製造で全国的な企業へと拡大し、さらに自動車タイヤの国産化に成功するとつぎつぎに事業を拡張していきます。彼の経営方針は売り上げの1割を適正利潤とし、そのぶん製品価格を抑えるというものでした。そして収益の3分の1ずつを会社と個人へ、のこり3分の1を社会に還元することを自らに課したといわれています。「絶えず時世の変化を洞察して、時勢に一歩先んじてよりよい製品を創造して、社会の進歩発展に役立つよう心がけ、社会への貢献が大きければ大きいほど事業は繁栄する」と自著『私の歩み』で述べ、社会貢献を企業経営と並列に扱った正二郎の独創的な考え方を見ることができます。地下足袋もズックも自動車タイヤも正二郎がつくったものはすべて地面に接するものです。まさに地に足がついたクリエイティヴィティでした。草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)が一般的だった時代に労働者の安全と健康を守ることをめざしたのです。それがそのまま石橋正二郎の企業精神でもありました。地下足袋の発明と美術館をつくることとは正二郎においては同じ次元のことだったのですね。

石橋文化センターのオープンと同じ1956年に、イタリアの国際現代美術展ヴェネツィア・ビエンナーレ会場に日本の展示パヴィリオンが完成しています。この建設資金を提供したのも正二郎です。日本館の建設をイタリアから提案されていた日本政府は予算上の問題でなかなか着工することができず、そこで正二郎に白羽の矢を立てました。快諾した彼はパヴィリオンの完成までを監修し、その全費用を捻出しました(1955年竣工、建設資金2千万円:現在の価値で約15億円、吉阪隆正設計)。また、1969年には京橋から移転を予定していた東京国立近代美術館を北の丸代官町に新築する工費も全額出費し、完成後に国へ寄贈したのです(建設資金12億5千万円、現在の価値で約50億円、谷口吉郎設計)。

石橋正二郎の久留米への郷土愛が半端ないです。
地下足袋の製造を始めて間もない1928(昭和3)年、九州医学専門学校(現久留米大学医学部)の開校に際し校舎建設費用と用地を寄贈します。39歳のときでした。これが正二郎の地域貢献のもっとも早い例です。さらに全国の国立工業高等専門学校62校のうち最初に設立された久留米高等工業学校(現久留米工業高等専門学校)の用地と校舎建築を寄贈(1939年)。久留米大学商学部の用地と校舎建築(1954年)、久留米市内の小中学校21校にプール建設(1956年)、久留米商業学校(現久留米商業高等学校)の講堂と武道場建設(1956年)、久留米市長公舎建設(1956年)、この年には石橋文化センターも竣工しています。つぎに障害児施設久留米ゆうかり学園の用地と校舎建築(1957年)、久留米市立荘島小学校の講堂建築(1959年)、久留米大学附設高等学校(孫正義、堀江貴文らの母校)の用地寄贈(1965年)と枚挙にいとまがありません。久留米が全国有数の高度医療都市になったのも、久留米大学医学部校舎建築の寄付によって文部省の医専新設の誘致に成功からだといわれています。1956年に市内小中学校へプールを建設寄贈したのは筑後川流域に発生した日本住血吸虫症の宿主ミヤイリガイが生息するので筑後川が遊泳禁止になったのを憂慮したからだそうです。久留米市長の公舎もつくっているのには驚かされますね。

久留米と同様に東京でも多くの寄付や資金援助が行われました。港区立飯倉小学校用地(1949年)、津田塾大学日本庭園(千代田区一番町、1959年)、学習院大学85周年事業基金(豊島区目白、1960年)、小平市立小平第六小学校校地と建物(1960年)、日仏会館建設基金(渋谷区恵比寿、1961年)、国立教育会館建設資金(千代田区霞が関、1964年)、日本近代文学館建設基金(目黒区駒場、1968年)、日本美術協会新築建設費と造園費(台東区上野公園、1968年)、公益財団法人高松宮妃癌研究基金(港区高輪、1968年)、日本学士院会館内装費(台東区上野公園、1974年)、国際文化会館基金と建設資金(港区六本木、1976年)など多くの寄贈を行っているのです。

正二郎の社会貢献は金銭を提供するだけではありません。土地の場合は候補地を調査・選定し購入する、さらに建物の場合は設計者を選定し建物の完成後に寄贈する、正二郎は建築完成までのプロセス全体をマネジメントしています。すべての作業が終了し完成後に寄贈するというものです。いまならば建築計画の総合プロデューサーともいえるでしょうか。そして、このプロセスをおそらく正二郎自身は愉しんでいたようなのです。正二郎は絵筆をもつことはありませんでしたが、建築、造園には関心が高く、自社工場、石橋文化センター、自宅、別荘のアイデアスケッチを描き、建築材料や工法についても専門的な知識をもっていたといわれています。水明荘(久留米市御井町、石橋家の別荘)、奥多摩園(東京都青梅市二俣尾、ブリヂストンタイヤが運営する保養所)、鳩林荘(東京都府中市八幡町、府中競馬場近くの茶庭)なども設計しているのです。

さよなら石橋美術館(5)石橋文化センターと石橋美術館

坂本繁二郎は1969年に亡くなるまで八女のアトリエで制作三昧の生活を送りました。八女市は久留米から西鉄バスで約30分。自然豊かで八女茶(「伝統本玉露」の生産量日本一)や巨峰、博多あまおうほか果物野菜の生産、清酒醸造などがさかんな地です。繁二郎はこの自然を愛しました。当時は見渡す限り畑や田んぼが広がり、油彩画材一式を錆びた乳母車に押し込んで畦道を歩く繁二郎がしばしば見られました。よく馬を描いているけれど、牛、能面、能面の箱、月雲、柿、リンゴ、ナス、卵、砥石、煉瓦、石、植木鉢、はさみ、辞書など、およそモティーフに選り好みがありません。頼まれれば工業用モーター(安川電機製)も描いています。繁二郎にとって目の前にあるものすべてが自然であり画題でした。

彼は20歳から39歳までのほぼ20年間を東京で過ごしたのち、ヨーロッパ遊学後に久留米の近郊、八女で自然に寄り添う生活を選びました。後年、繁二郎は安井曾太郎、梅原龍三郎とならび日本近代洋画の巨匠と呼ばれるようになりますが、当時、画家として成功することを夢見て東京をめざした青年たちがつぎつぎと欧米の前衛美術に感化され、表現スタイルを変転させたのに対して、繁二郎はひたすら土着的で晦渋な独自の日本的絵画世界を追求しました。多くが自己の芸術を完成することなく困窮のなかで夭折したのに対して、繁二郎は久留米という安住の地を得て画業に専念し長寿を全うしました。表層的には穏やかな人生だと思われますが、はたしてそうでしょうか。彼の内面には外部からでは想像もできないような葛藤が潜んでいたかもしれません。芸術作品の創出には作家が生まれた土壌と密接な関わりがあります。繁二郎と八女の自然とは分かちがたく結ばれ、それが石橋美術館の運営にも大きく影響することになりました。

石橋美術館は単独で建設されたのではありませんでした。久留米は1945(昭和20)年8月11日の空襲で市域の3分の2が焦土と化しました。市民の多くがバラック住まいの不自由な生活を強いられたのを見て、石橋正二郎は健全な娯楽がない状況を少しでも改善したいと考え、その10年後に大規模な総合レジャー施設「石橋文化センター」を建設しました。西鉄久留米駅からほぼ1㎞、徒歩10分余のところに石橋文化センターは1956(昭和31)年に完成したのです。約5万㎡の敷地に石橋美術館以外に体育館、遊園地、ペリカンプール、公認50mプール、野外音楽堂、花壇、憩いの森、テニスコートなどがつくられ、のちに文化ホール(1963年)、日本庭園(1972年)、市民図書館(1978年)とつぎつぎと増えていきました。これらすべてを久留米市に寄贈します。石橋文化センターには八女の坂本繁二郎のアトリエもそのまま移築されました(1980年)。

正二郎は、石橋文化センターに芸術の価値を広く大衆と分かち合うという理想を追求しました。石橋美術館が芸術鑑賞の場として独立しているのではなく、さまざまな娯楽が相互に影響し合い、芸術と日常との境界が取り払われた場にしました。たとえば、子どもたちがペリカンプールで泳いだ帰りに美術館に立ち寄って、高村光太郎作「手」の指の曲げかたを日焼けした手で真似している、そのような環境です。美術館の白壁に鎮座した作品と向き合う一方で、センター全体でさまざまな娯楽を享受できるような複層的な文化空間が「石橋文化センター」だったのです。このような施設は、当時、わが国ではめずらしく斬新でした。

ド・ゴール政権時のフランス文化担当国務大臣アンドレ・マルロー(1901ー1976)が国内各地につくった「メゾン・ド・キュルチュールMaison de Culture(文化センター)」がその発想に似ています。どちらも大衆を中心にした文化施設であり、当時としては先進的で画期的なプランでした。マルローは国家予算の1%を文化政策に充当するという目標を掲げ、パリ中の煤けた建物を白く洗い、オペラ座の大天井画をシャガールに委託し、宮殿、寺院、劇場などの建築遺産の大規模な修復事業を行いました。ほかにも若い芸術家のために1,500棟のアトリエやスタジオをつくるなど多彩な文化プロジェクトをいくつも実施しました。メゾン・ド・キュルチュールとは、全国レベルで文化の民主化を提唱したマルローが各地方都市につくった劇場、映画館、図書館、美術ギャラリーが集まった複合文化施設であり、国民が優れた芸術文化に接する機会を飛躍的に向上させるという試みです。この国家プロジェクトはミッテラン政権時の文化大臣ジャック・ラングへと引き継がれ、ラングはさらに映画、写真、美術教育、ファッション、ジャズ、料理など今まで芸術と認められなかった新興芸術や大衆文化なども視野に入れた文化支援を定着させていきました。

マルローは1960(昭和35)年にブリヂストン美術館を訪ね、時間をかけて全部の展示を観賞して石橋コレクションの質を高く評価しました。翌年パリで石橋コレクションの展覧会を開催する計画がもちあがり、パリ国立近代美術館において1962(昭和37)年に「里帰り展」が開催され新聞でも大きく報道されて話題を呼びました。正二郎の石橋文化センターとマルローのメゾン・ド・キュルチュールとの違いは美術館に対する考え方にあります。メゾン・ド・キュルチュールの美術館はコレクションをもたないギャラリー的性格です。同じ展覧会が各地を巡回し、その土地の地域性や固有性は考慮されません。一方、石橋美術館は地元作家を中心にコレクションを充実させ、久留米という土地柄に根ざした独自性をもっていました。これは欧米の多くの美術館を参照しながらも地域文化を基礎にした石橋美術館のアイデンティティと呼べるでしょう。

さよなら石橋美術館(4)青木繁と坂本繁二郎

青木繁と繁二郎は1882(明治15)年の同い年生まれ、久留米高等小学校では同級でした。家もとなり町で1キロ弱しか離れていません。彼らは森三美の画塾でもいっしょでしたが、当時の画力は繁二郎のほうが格段に勝っていたといわれています。繁二郎は4歳のときに父を亡くして、1895(明治28)年久留米高等小学校を卒業するが進学を断念しています。1900(明治33)年には兄も失って母ひとり子ひとりの家庭は困窮しました。1901(明治34)年4月頃、森三美の紹介で久留米高等小学校の図画代用教員となり翌年7月まで担当しました。このとき坂本繁二郎と石橋正二郎は教師と生徒として出会っているのです。

1900(明治33)年に青木繁は久留米高等中学校明善校(現福岡県立明善高等学校)を中退して上京し、小山正太郎の画塾をへて上野美術学校西洋画科(現東京藝術大学絵画学科油絵専攻)に入学、1902(明治35)年夏には徴兵検査のため久留米に帰省しました。そのとき青木の絵を見た繁二郎はその変貌ぶりに衝撃を受けるのです。上野で学ぶ青木の驚くべき上達に大いに刺激され、繁二郎は画家になることを決意します。そして9月になると青木といっしょに東京へ向かいました。母ひとり残しての上京です。青木は上野美術学校在学中の1903(明治36)年に白馬会第8回展に出品していきなり白馬賞を受賞し、華々しい画壇デビューを果たして一躍注目を浴びることになります。一方、繁二郎は1904(明治37)年に太平洋画会展に初出品し、その後断続的に出品をつづけるが、はかばかしい成績を残すことはできませんでした。彼は東京パック(大衆漫画雑誌)に入社してもっぱら諷刺まんがで生計をたてることになります(明治41〜44年)。

その後、青木は代表作「海の幸」につづく大作「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出展しましたが三等の末席、不評でした。絵筆以外に生活の手段を持たなかった青木は、父の死後家族を扶養する義務を背負い、また恋人福田たねと長男幸彦を栃木県水橋村のたねの実家に預けたまま病気と貧困にさいなまれ失意のなかで28歳の若さで逝去します。
彼らの荒ぶる魂をやさしくつつみこむ器となったのが石橋美術館だったのです。

さよなら石橋美術館(3)石橋美術館の誕生

石橋美術館の誕生には大いに坂本繁二郎が関係していました。1924(大正13)年9月にヨーロッパ遊学から帰国した繁二郎は自宅があった東京には帰らずにそのまま故郷久留米の土を踏んだのです。以後、東京には一度も戻らずに郷里で黙々と画業に専心することになります。帰国から6年後の1930(昭和5)年、繁二郎は高等小学校の臨時図画教師時代の教え子であった石橋正二郎を訪ね、「夭折の天才青木繁の作品が散逸するのが惜しいので作品を買い集めて美術館を建ててもらいたい」と依頼しました(石橋正二郎著『私の歩み』私家版、1962年)。この訪問が、それまで自宅の壁面を飾るための美術品収集から、正二郎が自覚的に系統的なコレクションを形成していく契機となったと考えられます。そして西欧への関心も高かった正二郎の収集は日本近代洋画とともにフランス印象派、ヨーロッパ近代絵画へと拡がっていったのです。

1937(昭和12)年にブリヂストンタイヤ株式会社は本社を発祥の地久留米から東京へ移転しました。そして1952(昭和27)年1月11日、戦災で焼けた京橋のブリヂストン本社ビルを再建する際に、ヨーロッパ近代絵画のコレクションを一般に公開するための施設として、2階にブリヂストン美術館を開設しました。もっとも参考にしたのはニューヨーク近代美術館だったそうです。すでにヨーロッパ近代絵画の収集で名高かった倉敷の大原美術館に加え、まだ戦争の痕跡をとどめる東京のビジネス街の中心に誕生したお洒落な私立美術館は大いに話題を呼び、多くの来館者が訪れるようになりました。

石橋コレクションの形成に正二郎は企業経営と同じ熱心さで取り組んだのです。収集のプロセスは財力にまかせた力業ではなく、私生活は質素であった正二郎が半生を要した謹厚慎重な努力の賜でした。そのなかには戦時中に困窮した美術愛好家の手放した作品が海外流失するのを防ぐために購入した作品もありました。収集作品の選定に当たっては著名な研究家や美術ジャーナリストを集めた諮問グループに意見を求めています。彼らは石橋コレクションの拡充に協力し、のちにブリヂストン美術館と石橋美術館の展覧会企画にも参画するようになりました。アカデミックな裏付けや当時の美術思潮を反映させて個人的な趣味性や偏向性を排したコレクションの形成を実現したと言えるのです。

石橋美術館のコレクションには久留米出身の美術家が多い。青木繁、坂本繁二郎、高島野十郎、古賀春江、吉田博など近代日本洋画史に名を残す美術家が多く久留米から誕生したのは美術史上の奇跡といわれています。なぜ明治期以降、九州の小都市に尋常でない数の画家たちが生まれたのでしょうか。幕末から明治維新にかけて旧久留米藩(有馬藩)では世継ぎ問題に端を発した藩内抗争が長期間つづいて多くの優秀な人材が失われました(「天保学連」の分裂)。これを多数の画家が生まれた誘因要素と考えたのが浮羽郡出身の美術史家河北倫明です。有馬藩の問題は深刻でした。薩長土肥をはじめ周辺の雄藩が明治新政府でつぎつぎ要職に就いて活躍するのをただ見ているだけの有馬藩の若者は未来への夢を絶たれ逼塞し、没落した士族は困窮して鬱屈が蔓延していきました。そのようななかで官職ではなく芸術で身を立てようとする有志が現れたのです。立身出世の夢を絶たれた彼らの心情は屈折や強迫に満ちて表現行為に固執した、と河北倫明は指摘しています(『青木繁—悲劇の生涯と芸術』「じゅうげもんの世界」角川新書、1964年)。青木繁と坂本繁二郎はともに有馬藩の士族の子として生まれましたが、青木繁は夢想家で浪漫的な気質を開花させ、早すぎる死に向かって全速力で28年間を駆け抜けました。それに対し、坂本繁二郎は自然と向き合いながら自己の芸術を追究し、孤高の画家として87歳の天寿を全うするのです。二人はまったく異なる指向性を示しましたが、実は並々ならぬオブセッションを共有していました。

この傾向はほかの久留米の画家たちにもいえるのではないでしょうか。たとえば、浄土宗の寺の長男に生まれながら僧籍を継ぐことなく数々の造形的実験を繰り返して前衛を生きた古賀春江。東大農学部水産学科卒業後に画家を志し、独学で写実を極め透徹した精神性に到達した高島野十郎。有馬藩士の家に生まれ1899年に渡米、水彩風景画と木版画とで数々の新機軸を生み出して欧米でも高い評価を受けた吉田博など。いずれも尋常でない偏執ぶりです。筑後の穏やかな気候に育まれて、明るくのんびりした気風の裏には、深く沈降した情念が淀んでいて複雑に屈折した心情が豊饒な創造意欲を醸成しました。さらに久留米は青木繁、坂本繁二郎らに絵画を指導した森三美(みつみ)や古賀春江らを教えた松田実(諦晶)など優れた指導者にも恵まれ、豊かな才能を育んだ土地です。久留米に石橋美術館が生まれたことは日本近代美術史上の象徴的なできごとだったのです。

さよなら石橋美術館(2)消えた美術館

石橋美術館(福岡県久留米市野中町1015)が閉館したのは2016(平成28)年8月28日です。1956(昭和31)年4月26日にオープンしたので、ちょうど開館60年目にその歴史の幕を閉じたことになります。運営主体であった公益財団法人石橋財団が久留米から撤退し、960点の所蔵作品は財団の本拠地である東京で一括管理されることになったのです。美術館自体は久留米市が運営を引き継ぎ、あらたに「久留米市美術館」と改称して2016年11月19日に再オープンしました。充実した内容を誇ったコレクションは東京町田にあるバックヤード「石橋財団アートリサーチセンター」へ移転したのです(数点は石橋財団から寄託というかたちで一時的に借り受けています)。

石橋美術館は、ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館、東京都中央区京橋1-10-1)とともに、世界最大のタイヤメーカーであるブリヂストンタイヤの創業者石橋正二郎がつくった美術館です。公立近代美術館最初の神奈川県立近代美術館のオープンが1951年10月、ブリヂストン美術館が1952年1月につくられ、東京国立近代美術館が同年12月、これらにわずか4年遅れて開館したのが石橋美術館なのです。まさに日本の美術館建設の黎明期のできごとでした。

石橋美術館の所蔵作品の中心となったのは明治以降の日本近代洋画です。なかでも青木繁、坂本繁二郎、藤島武二をその嚆矢としました。久留米出身の青木・坂本、鹿児島出身の藤島がコレクションの中核をなし、さらに岡田三郎助、黒田清輝、古賀春江、児島善三郎、藤田嗣治、安井曾太郎、吉田博など日本近代美術の礎を築いた錚々たる画家たちの代表作がつぎつぎとラインナップに加わりました。やがて石橋美術館は全国でも屈指のコレクションをもつ美術館となっていくのです。コレクションの展示に重きをおいた企画運営によって、何時訪れてもお気に入りの名画が観られるという、美術ファンにとってはとても重宝な美術館でした。また近代の日本美術を研究する人びとにとっても久留米は必ず訪れるべき聖地のひとつであったのです。

60年間の綺羅星のような展覧会の数かずをあらためて想い起こすと、その存在の大きさをいまさらながらに実感することができます。なぜ石橋美術館は閉館しなければならなかったのか。美術館がクローズする理由には経済的な要因が多いといわれますが、石橋財団の正味財産は3,272億円(2015年度末資料による)と伝えられていて、財団にとって年間2億円に満たない石橋美術館の運営経費が重荷になったとは考えにくいのです(『読売新聞西部本社版』2014年7月12日)。では、どうして日本有数の美術館が久留米から消えなければならなかったのでしょうか。

半世紀以上愛されつづけた美術館の終幕はいかにも残念です。戦後まもない頃に福岡県、筑後地方の小さな都市に誕生した石橋美術館は久留米という街の歴史と大きく関わり、石橋正二郎という稀代の企業家のクリエイティヴィティの遺産でもあり、またこの国の美術館のあり方についても語り継ぐべき多くの逸話を残してきました。本稿では過去と現在(さらに未来)を往還しながら、石橋美術館についてさまざまな観点から考えていきたいと思うのです。

さよなら石橋美術館(1)来場者がいない美術館

今日は2020年5月5日。4日に安倍首相より緊急事態宣言の延長が発出されました。さらに最長1ヵ月外出自粛がつづくことになります。図書館、美術館、博物館、動物園、水族館等の公共施設も閉館したままですが、少しだけ緩和や解除の可能性が見えてきました。このような行動制限が継続するなかで図書館、美術館、博物館のひっそりした静寂の空間がなつかしく思えてなりません。わたしたちが小さい頃はこれらの施設に人影は少なく、子どもたちにとってちょっと緊張を誘う独特の雰囲気がありました。とくに薄暗い書庫や展示室は小説や童話の世界を想起させる装置のような存在でした。それが最近では、図書館は漫画や雑誌も豊富で児童書を充実させたり、多くの蔵書を開架にするなど随分オープンになりました。また上野や六本木の大型美術館では新聞社等が企画する集客性の高い展覧会が数多く開催され、平日でも立錐の余地のない企画展示がたくさん組まれています。ただ一方では来館者の減少で閉館する施設も少なくありません。

わが国では、泡沫経済の絶頂期、1980年代後半から全国の自治体で庁舎とともに文化会館、多目的ホール、劇場、美術館、博物館等々の芸術文化施設が雨後のタケノコのように林立するようになりました。一挙に増えた税収のうち公共事業費で建物が優先的につくられ、開館後の展覧会経費、作品購入費、調査研究費、専門スタッフの人件費などのソフト面が軽視される事例が頻発するようになります(いわゆる箱物行政と揶揄されました)。やがてバブル崩壊が現実化してくると運営予算は削られ、事業規模が縮小されたり、施設自体が休眠状態になるところも現れてきたのです。民間団体や企業の管理運営による指定管理者制度も導入されて、美術館経営に費用対効果が追求されるようになりました。来場者が少ない美術館はダメ美術館という数字で美術館を評価する傾向は現在もそれらの活動を蝕んでいるのです。

世界の美術潮流から見てもわが国の美術館の運営予算は少なく組織的にも極めて脆弱です。〈文化芸術の振興は21世紀の緊要な課題である〉と文化芸術基本法(2001年)に明記されていても文化予算は教育予算とともに削減される一方です。ただ官民を問わず誰でも一度は訪れたいと思う珠玉のような素晴らしい美術館は寡少ながらあります。そして残念ながら消えてしまったものもあります。そのなかで、まず福岡の久留米にあって2016年に閉館した石橋美術館について触れたいと思います。

2020年5月1日

4月7日に緊急事態宣言が発出されてから3週間が過ぎました。新型コロナウイルス感染症は収束する気配もなく外出自粛は依然継続しています。関東の1都3県では4月25日から5月6日までの12日間に「いのちを守るSTAYHOME週間」を制定して行動制限をさらに強化しました。美術館は全国的に臨時休館しています(ワタリウム美術館は週3日予約制で開館しています)。私たちは映画にもコンサートにもカラオケにも図書館にもレストランにも居酒屋にも行くことができません。最近では友人宅を訪ねることも憚られるようになりました。いままでわたしたちが体験したことがないような閉塞状況がさらに5月末まで延長されようとしています。

東京の子どもたちは全国に先駆けて3月2日から臨時休校になり、3月25日の終業式に久し振りに登校したかと思うと春休みになり、新学期が始まる前に緊急事態宣言が発出され、そのまま済し崩し的に臨時休校がつづいています。この3月2日は新型コロナ対策としてはかなり早く、中国では子どもの感染例が非常に少ない状況で学校がまず一斉休業に入りました。まだマスクをしてない人が多い満員電車に大人が耐えているなかで、すでに子どもたちは学校に行けなくなっていたのです。わたしは某都立高校の美術科の臨時教員として休校期間中も出勤していましたが、少なくない数の生徒が休校中の学校へ大した用事もないのに三々五々登校してくるのです。寂しそうな顔で「学校はいつ始まるんですか」と尋ねる生徒たちに対して教師はなにも応えることができません。わたしたち自身が自覚症状のないまますでに感染しているかもしれないという恐怖にかられているのです。サイレントキャリアがこのパンデミックの怖ろしさを相乗しているように思います。当初、画期的だと思われたクラスター包囲網をあざ笑うかのように一挙に拡大しているのです。

わたしたちは清潔な社会をめざしてきました。そして、それが達成されたかに思えた21世紀でいくつものウイルスに翻弄されてます。SARSよりも感染性が非常に高く、死亡者数はSARSを追い抜きました。SARSと遺伝子配列は似ているのに新型コロナは、不謹慎な言い方ですが、着実に進化し攻撃性を先鋭化しているように思えるのです。わたしたち人類が一刻も早く新型コロナウイルスを克服し、安心安全な社会を回復することを祈るのみです。